「一日が始まる」


「コツコツする音がうるさいです。」


 近隣の方から苦情があったらしい。

 一瞬、「コツコツ」なんていう可愛らしい音と「うるさい」という嫌悪感を覚える言葉が結びつかなかった。

「それは大変失礼致しました。気を付けます。」

 内心みんなうるさいのに、なんて意地の悪いことを思いながら管理人さんにそれを伝え、その場を後にした。


 夜、電子ピアノを弾いていると(勿論音は出さずに耳元で鳴らす)ついつい情熱的になってしまう。お、これはいいぞ。と自分を鼓舞しながらいつの間にかコツコツカタカタと鍵盤を叩く音が鳴っていた。ピアノは本当に打楽器なんだと、あの美しい響きから連想できない事実を近隣の方々の苦情によって実感させられた。コツコツの正体はこれだった。近隣の方々本当にごめんなさい。


 実はそのコツコツ事件から、早寝早起きにハマっている。

 元々僕はかなりの夜型人間で、夜中を楽しみに一日を生きていた。というより、夜寝るのが勿体なかった。

 夜中という時間は、安らかだった。誰もが寝静まっている時間に物思いに耽る。音楽を作ったり、本を読んだりする。出雲大社のしめ縄はなぜ向きが逆なのかとか、ゼノンのパラドックスについて考えたりもする。いつの間にか空が白けてきて、新聞配達のバイクの音が聞こえてくる頃、眠りにつく。

 朝目覚めると、そんなことは忘れていそいそと仕事に向かう。

「ああ今日も一日が始まるなあ。」と、ぼんやり考えながら、街ゆく人の顔を眺めてみる。

そんな自分が早寝早起きにハマっている。コツコツ事件から夜ピアノが弾けなくなり、夜を持て余すようになったからだ。


 早寝早起きにハマってからまず驚いたのは、目覚めがいいことだ。これは衝撃だった。馬鹿みたいなことを書いている気もするが、僕からしてみると初めての経験だった。朝という時間は、ベットから出るのが嫌で唸り声を上げる時間だと思っていた。

 それを考えると、「早寝早起きにハマっている」というのは語弊があったかもしれない。僕がハマっているのは早寝であって、早起きはそれに伴って発生するささやかな時間の贈り物だ。

 そのささやか時間を何に使うか。これを考えるのが大変有意義に感じた。


 朝目が覚めて(起きるのではなく目が覚める!)ベットから天井を眺める。ブラインドと窓を開け、朝日を感じながら音楽を選ぶ。

 今日は高木正勝がよく似合う静かな朝だ。パジャマにコートを羽織り、似合わない帽子と眼鏡を掛ける。どこへ出かけよう。いつも使う駅とは反対側の駅の方へ歩く。線路を横目に古びた商店街を抜ける。政治家のポスターの落書きと、知らない自転車のカゴに入った「ギャングたちが宇宙を守る」(こんなタイトルだった気がする)を見つけて少しドキッとする。新しそうな街のコーヒー屋さんがある。チェーン店にはなるべく行かないようにしている。僕が行かなくても誰かが行ってくれるだろう。開店まで5分あったので店の前の石ころを転がしてみる。店員さんが早めに店に入れてくれる。今日のおすすめのコーヒーを親指くらいのサイズの紙コップでくれた。


「本日おすすめのコーヒーですよ。」

「そうですか、とてもおいしいです。」

「ありがとうございます。よかったです。」

「せっかくなので、これの大きいサイズをホットでお願いします。持ち帰るので紙のカップで。」

「店のコーヒー豆全てからお選びいただけますが、こちらで宜しいですか?」

「はい。せっかくなので。」

「かしこまりました。ハンドドリップなので5、6分お待ちください。」

「わかりました。お願いします。」


 店内を見回す。新しい木の匂いがする。幼稚園の時引っ越した新築の家を思い出す。ついでに引っ越した初日におねしょをしたことも。


「お待たせしました。熱いのでお気を付けください。」

「ありがとうございます。せっかくなので豆も少しください。せっかくなので。」

「かしこまりました。少々お待ちください。」

コーヒーと豆を受け取る。

「お気を付けて行ってらっしゃいませ。」

「ありがとうございました。行ってきます。」


 どこへも寄らず家路へと戻る。コーヒーを一口すする。本当に熱いんだな。当たり前か。いつもよりなんだか香ばしいな。本日のコーヒー。どこの国のコーヒーだっけ。思い出せないな。ビニール袋を片手に古びた商店街を戻る。ボサボサのダックスフンドがおじさんを引っ張る。ぼうっとしてると軽トラックにクラクションを鳴らされる。ちょっと恥ずかしくて遠回りをして帰る。

 自宅に戻り文章を書く。本日のコーヒー、最後の一口を飲む。


 朝の10時過ぎ。今日も一日が始まる。


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